【雑記帳 〜常日頃に思うことの羅列〜 1999年〜2001年】 |
2001年12月16日(日) |
どういじくっても変わることはない手詰りの顔のくせに、さっきから化粧をしている女のせいか。
デカい顔のくせに、鼻の穴と口しか覆われていない小さな小さなマスクをしている男のせいか。
駆け込んで乗り込んで、そして座る席はないかとウロウロと動き回っている婆さんのせいか。
人目もはばからず、進路のことで怒鳴りあっているマザコン親子のせいか。
それとも、この地下鉄車内が妙に暖房が効きすぎて、妙な暖かさのせいか。
奇跡が起こる瞬間て、どんななんだろう。
時間(とき)が流れて気がつくものかもしれない。
ああ、あの時が奇跡だったんだ、と。
ああ、今に繋がるあの時が奇跡だったんだ、と。
ああ、今のためにあの時が奇跡だったんだ、と。
人は、時間の流れの渦巻のまんまん中にいるのか。
人が、時間の流れの渦巻をつくり出しているのか。
どちらにしても、どこまで続いて行くのか。
渦巻の流れが。
時間の流れの渦巻が。
もう、全てから逃れたい、と思うことがある。
卑怯者、と人は下げすむだろう。
裏切者、と人は非難するだろう。
でも、今、ほんとの自分なのか。
ほんとの自分とは、何なのか。
だから!
2001年6月25日(月) |
これは、以前から情報として入ってきていたことですが、今年1月16日の閣議で決定した、平成13年10月から実施する「NPO法人に関する税制特例措置」についての説明でした。
内容は、「特定非営利活動法人(以下、NPO)のうち一定の要件を満たすものとして国税庁長官の認定を受けたものを“認定NPO”とし、認定NPOに対して寄付をした個人・団体に対し税制上の優遇措置を設ける」というものです。
結果的に申せば、「開いた口が塞がらない」です。
なぜなら、ハッキリ申上げて、果たしていくつのNPOがこれに該当するのでしょう。
これでは「絵に描いた餅」で、一応は考えてみました的な“お役所の発想”なのです。
まずは、“認定NPOのための一定の要件”とは何かから説明します。
この要件は、NPOの発祥の地であるアメリカで行われている「パブリック・サポートテスト」をもとにして考案した「日本版パブリック・サポートテスト」のことです。
アメリカで導入されているパブリック・サポートテストは、アメリカの税務当局がNPOに対する免税資格を与えるために行う「公益性判定テスト」のことで、NPOに対する社会からの支援度、すなわち寄付者の数や寄付金額の多寡などで判断するものです。
それを日本版に作り替えて導入しようというのが、「日本版パブリック・サポートテスト」です。
具体的には、
【1】
総収入金額のうちに占める寄付金総額(寄付金および助成金)の割合が3分の1以上であること。
ただし、国や自治体、地方公共団体からの補助金や借入金は総収入金額に含まれず、以下のものは寄付金総額に含まれません。
(1)1人または1団体から受けた寄付金または助成金のうち、寄付金総額の2%を超える部分の金額。
(2)1人または1団体につき、年間3,000円未満の寄付金。
(3)NPO法人の役員からの寄付金。
ただし、寄付金総額の5割、または役員の寄付者が寄付者総数の5割を超える場合。
【2】
受入寄付金総額の70%以上を特定非営利活動に係る事業費に充てていること。
【3】
過去2年間の活動をもとにして申請し、認定していく。
【4】
認定期間は2年間で、その都度再申請をしていく。
というのが、大きな柱です。
で、ここで怒り心頭になるのは、【1】の(1)の部分については、適用すると現実に厳しいもので、アメリカのルールにはないものだそうです。
なぜ、本家本元のアメリカにないルールを日本国内では持ち込んでくるのか。
NPOの理念は、国や仕組みが違っても変わるものではないと思うが。
さらに、【2】においては、もう「おマエら、やっぱり机と地位にしがみついているだけじゃねーのか」と嘆きたくなります。
NPOの多くの寄付金は、事業費より運営費に使われているのが一般的です。
それをよりによって、「事業費に使われていなきゃならん」なんて盛込んだら、もうお手上げです。
だって、寄付金を事業に当てなきゃということでドンドン事業をしたら、事業収入が増えていってしまい、総収入金額のうちに占める寄付金総額がドンドン少なくなっちゃって、その割合が3分の1以上なんてことは不可能になってしまうからです。
で、結局、【4】の再申請の時には、もう認定されなくなる。
で、結局、“認定NPO”は日本から失われ...。
で、結局、誰もいなくなる...。
実は、説明会のあとに個別に質問する時間があったので、内閣府国民生活局市民活動促進課課長補佐・本多康昭氏に以下の2点を質問をしてみました。
【1】なぜ、本家本元のアメリカにないルールを日本国内では持ち込んでくるのか。
【2】寄付金を事業に当てなきゃということでドンドン事業をしたら、事業収入が増えていってしまい、総収入金額のうちに占める寄付金総額がドンドン少なくなっちゃって、その割合が3分の1以上なんてことは不可能になってしまわないか。
本多氏いわく、「旧大蔵省税制一課審査係と、ずいぶんやりあった結果なのです。アメリカと日本では国の仕組み・制度が違うのです。特に、『受入寄付金総額の70%以上』という部分については“100%”だったところを70%まで持ってきた」と鼻の穴を膨らませて、胸とお腹を張られてしまいました。
だからさあ、NPOの理念は、国や仕組みが違っても変わるものではないと思うけどなあ。
それにさあ、結局のところ、2年後の再申請の時には認定されないわけだから、“認定NPO”はドンドン減っていきますよね? という質問には、
「そういうケースも出てくると思います」と。
なーんだ、少しはわかってるんじゃん、この法案が欠陥のあることを。
でもさあ、絵に描いた餅のような欠陥のある法案を作って、人としてムナシクない? って聞いたら、
「ムナシクなんかないです。これは、必ずうまくいくと信じています」とノタマワレました。
あーあ。
やっぱり、とほほ・・・、だなあ。
「NPOにとって税制優遇がないから寄付金が集めづらい環境であるのに、寄付金が少なくても地道に運営や本来事業をやっているNPOは、認定されずに寄付金が集めづらい環境に取り残されていく。もし認定されても、認定され続けるための事業をし続けなければならない」ということになってしまいます。
なんのためのNPO制度なんだろう。
誰のための市民活動なんだろう。
ちなみに、本多氏の名刺には、「2001ボランティア国際年」として、ハーティーくんというキャラクターが両手を広げて微笑んでいます。
でも、その微笑に誘惑されて両手に飛び込んでいく気にはならんゾ。
国際年なんだといってみても、超閉鎖的で理不尽な「日本版パブリック・サポートテスト」を考えるようなヤツらには、絶対ダマサレナイぞっ!
きっと、こういう法案を考えたりする人たちや、政治や行政を構成する人たちは、きっと「人間は悪いことをする生き物。だから、法律で取り締まらなくては」と考えてるんだろうなあ。人を信じられない心の貧しい人たちが制度づくりをしているのだから、その制度の中で生活をする人(国民)の心が貧しくなってしまうのも当然、と考えるのは理屈が飛躍しすぎでしょうかねぇ。
2000年11月8日(水) |
つい2カ月前の真夏の残照が、跡形もなく消えていきます。
でも、夏の思い出だけは消えないように、記憶の片隅だけにでもとどめておこうと思います。
春夏秋冬の四季の中で、夏の思い出だけは特別だから...。
なあーんて、誰でもかれでも詩人になっちまうんですよね、この季節は。
実はこの前、衣替えというか、冬服を出して昨年買ったズボンを穿いたら、なーんと窮屈なことでしょう。
お腹もそうなんだけど、お尻も!
むむむ。太った(デブ)になったってことかしらん?
まずい!
ところで、近所の公民館で白岡町の文化協会主催で「文化祭」をやってたので、チョット立ち寄ってみました。
半ば、“冷やかし”気分だったんですけど。
でも、木版画や水墨画、油絵などどれも力作でした。
いや、ほんと、お世辞抜きにいい作品が多かったです。
なんか、作者の幸せというか、喜びというか、そんなものが伝わってくる作品を目にすると、見るものも幸せになってきます。
2000年9月10日(日) |
今日、午後7時頃。
トイレ(北窓)の窓が、ときおり明るくなることに「???」と思い、二階の北窓からのぞいてみると、なんと! 雷です。
連続して雲間が輝き、稲妻が走ります。
あまりにも遠いので、まったく音は聞こえず、雲が輝き、稲妻が左右上下に走るさまは、不謹慎な表現ですが“きれい”でした。
まさに、先人が「雷神」と雷を神とあがめた気持ちがわかるような気がします。
方角としては群馬県館林近辺だと思うのですが、被害があったとしたら、“きれい”などと思っていることに申し訳なく思います。
2000年9月8日(金) |
「あっせん」の内容は、公共工事の受注の便宜による利益供与は「収賄」なので、これには該当する以前に罰則規定があるのですから、就職や進学などの「口利き」が主なのでしょう。
では、「利益」の内容は、どういったことがあるのでしょう。きっと、金銭(寄付?)の受渡しが主なのでしょう。
ここでまず第一に思うことは、こういう法律を作る以上、「政治家は、なんらかの斡旋をすることで利益を得る」ということが明らかになったということです。
まあ、秘書の給与で私腹を肥やしていた山本(元)代議士が、「政治家になって、儲かった」と言っていたそうですから、他の皆さんも同じようになんらかの「儲け」を得てることでしょう。
そして、もう一つは、この「あっせん利得罪」の適用について、「秘書が行った場合」を盛込むかどうかが議論になったそうです。
盛込みたくないとする立場の考えの根幹には、「秘書のやったことまで責任はとりたくない」というのがあります。
この理屈(理論ではなく、理屈です)が、よくわかりません。
政治家と秘書の雇用関係は、どうなってるのでしょう。
政治家は、「秘書を雇っている」のではないのでしょうか。
それであるなら、従業員(秘書)の管理監督責任は、雇用者(政治家)にあるはずです。
食品メーカーや自動車メーカー、警察の不祥事が相次いでいますが、それらの組織のトップは、何らかの形で責任をとっています。かつて、証券会社の閉鎖が決まったときの社長が「社員たちは悪くはありません。すべて私の責任です」と涙に声を詰まらせての記者会見は、トップが責任を果たすために苦渋している姿が見えたという意味で、感慨深いものがありました。
しかし、かつてのロッキード、リクルートなどの政界疑獄では、全て「秘書が」の一言ですましてきました。
ここで、政治家の皆さんにお聞きしたい。
あなた方は、従業員である秘書を管理監督できる能力もないのに、国政を担う政治家を志したのですか。
日本の社会には、さまざまな職業があります。しかし、政治家という職業だけが責任をとろうとせず、「手柄は自分。失態は秘書」などと言っています。
こんなことが、政治不信の原因の一つと思いませんか?
1999年1月28日(木) |
昨日、取材からの帰り道(夜7時ごろ、大宮バイパス)、三車線あるうちの右車線を軽快に走っていたのです。(この時間帯にこの道がこんなにスムーズに流れるのは珍しいけど)
ところが、右車線の流れががダンダン遅くなってきます。その他の2車線は順調なのに...。
間合いを計って中央の車線に出て右車線の渋滞になっている先頭へ行ってみると、なんと携帯電話を耳に当てながら走っている大バカ者がいるではありませんか。
ふざけろ!
お前のようなものが社会のモラル低下を招いている元凶なんだ!!
もちろん、渋滞の原因にもなっている。
自分のことだけではなく、周りの人のことも考えなきゃ。
こんなことは、幼稚園で習うことでしょ!!
プンプン。
1999年1月17日(日) |
ボクの風邪のひきはじめって、鼻水が止まらなくなります。
今も右の鼻の穴から鼻水が...。(今年一発目のこのページの更新だというのに、キタナイ話でスミマセン)
でも、この鼻水がキーボードを打つ右手の甲にポトリと落ちて、そこから生暖かさが手の甲全体に広がっていく...。(こんなことを書いているのは、風邪で脳が冒されているのだと乞許)
日ごろ元気だと「健康のありがたみ」を忘れています。風邪をひくたびに思うことですが、風邪が治るとまた忘れてしまうのです。何度同じことを繰り返せば身にしみるのでしょう。